なつやすみの宿題

 

 

 暑気払いが終わって解散したあと、私は千港さんと二人で浜辺を歩いていた。
 夜の海は重くて深い。昼のあいだの穏やかさとは反対に、船も人も呑みこんでしまう油断ならない雰囲気が漂っていた。つんと鼻の奥にくる生臭い潮の匂いは相手を警戒させて、寄せては返す波は静かに牙を研いでいるようだ。
 正直なところ泳げないのもあって、私は海が好きはない。
 だけれども千港さんが「海を見に行きたい」と去り際に言い出したとき、ついていくと真っ先に手をあげたのも私だ。
 恋心は厄介な造りをしている。矛盾だらけのジェンガのようだ。一本、扱いを間違えるだけでたちまち崩れてしまう。
「日原さん」
「ん?」
「靴ぬいじゃうねー」
 三歩先を歩いていた千港さんが砂浜にしゃがみこんだ。砂浜から離れると道沿いに並んでいるビルや建物の窓から洩れる明かりくらいが光源になるほど周囲は暗い。
その中で千港さんはパンプスをぺいぺい、と数十センチメートル先の砂浜へ放り投げた。
「何してるの!?」
 スニーカーが砂に沈むのに足をとられながら、千港さんの傍まで走っていった。行楽シーズンは終わりに近づいているが、まだどんなごみが投げ捨てられているのかわからない。硝子の破片で足を切ってしまうかもしれない。
 私がパンプスを片手にそんな危険性を並べていると、千港さんはお酒のせいか顔を赤くしながら陽気に笑っている。まだ立ち上がらない。砂の上にしゃがみこんでしまうと、綺麗な赤いフレアスカートが台無しになってしまうというのに。
 溜めていた息を長く吐いて、千港さんの傍に私も腰を下ろした。パンプスは横に置いておく。
 砂のレジャーシートの感触を味わいながら、視線は海と空に縫い付けられた。水平線という境界は曖昧だが決して交じり合うことのない二つの自然を、二人きりで見られるのは贅沢なことだった。
少なくとも私にとっては。
「蝶になりたいな」
 また千港さんが突飛に言いだした。
「それはどうして」
「蝶は靴を履かないですむじゃない。裸足で、ひらひらって飛んでいけるから」
 うらやましいなあ。そう、千港さんは本気の色をにじませながら言った。
 呆れながら空を見上げ、普段よりも星の光が強いことに気づく。職場や自宅近辺では、夏の星はほとんど見えない。
 星座はよくわからないけれど、わからないからこそできる与太話もある。
「千港さん。蝶は飛べるけれど空まで届かないのは知ってる?」
「なんで? 蝶は空を飛んでるじゃない」
「飛べるけれど、蝶は星座にはないから。燃え尽きるまで飛ぶことはできないの。よだかみたいに」
「……ほんとうに、蝶の星座はないの?」
「あるかもしれないけど、私が知る限りだとないな」
「そうか」
 千港さんは膝を抱える。さらに膝の上に顎を乗せて、にらむように海を見ていた。
 視線はまっすぐで。憎しみや怒りはなく、純粋な驚嘆を抱くのを悔しがっているように。
 千港さんは海を見る。
「海は綺麗だから怖いよね」
「多少はわかる。でも、怖いのに眺めに来たかったの?」
「うん。夏の終わりの海は割と好きだから」
「蝶になって飛びたいくらいに?」
「あははは。そうだねえ」
 快活な笑い声をあげていたが、どことなくうつろな響きをしていた。中国の故事で蝶になる夢の話があったなあ、などと私もぼんやり考えた。
「千港さん」
「ん?」
「もし、あなたが蝶になったら私が閉じ込めてしまうよ。きっと」
 どうしてこんな風に言ってしまったのかは自分でもよくわからなかった。
 お酒の席で口にしたカルピスサワーのせいなのか、夏が去っていく寂しさが後押ししたのか。
 はっきりとしていたのは、私は前から千港さんが好きということくらいだ。
 千港さんはきょとんとしたあとに、膝から顎を離して私の肩に頭を預けてきた。少しの煙たさと、柑橘系のフレグランスが混ざり合った匂いがする。
 いままでにない距離の近さに緊張した。
「それって、私がすきということなの?」
「多分」
「多分かあ」
「だいぶ前から気になってました」
 正直に言うと笑われる。
「私が蝶になったとしたら、日原さんはあれになるね」
「あれ?」
「虫取り網」
 それはなかなか手厳しいたとえだ。私が顔をしかめると、千港さんは立ち上がった。
「帰ろうか」
「はい」
 告白の返事はもらえないままだが、もう深夜だ。帰りの電車の時刻表をスマートフォンで検索しようとする。その前に手がパンプスでふさがっているのを思い出し、千港さんに返した。
 千港さんは流れる動きでパンプスに足を戻して先に歩き出す。私はその二歩後ろを歩いていた。まだ最終電車まで間があることに安心すると、千港さんの背中にぶつかった。
 立ち止まってどうしたのだろう。
「ねえ、日原さん。今日泊まっていっても大丈夫?」
「私はあなたのことが好きだと言ったばかりなんだけれど」
 劣情にかられることはないだろうが、告白したあとに何のリアクションもない相手が、部屋に上がってくるのはいくら私でも困る。
「なら私の家にくる?」
「だから」
「つかまってもいいよ、ということだけれど」
 言葉が詰まった。口から出るはずの呆れや苛立ちが、喉の奥にひっこんでお腹の中に落ちていく。
「……同情でするのはやめて」
「本気ならいいんでしょう」
「まあ」
「なら決まり」
 千港さんは背を向けて歩き出す。その背中をただ見送りそうになって、慌てて駆けだした。
 蝶をつかまえないと。

 

H30.10.19 掲載