姉の緩慢

 

 

 

 私はこれまで正しく間違えてきた。

 だから、もう。これ以上は間違えたくない。

 あの人を傷つけたくない。

 雨上がりに一枚の葉に落ちる滴のように微かな願いを聞きとってくれたのは、あの人の友人だった。

 私の恋人だった。

 

 

 

 三宮散春は急いでいた。家や個人商店が並ぶ周囲を見渡しながら初めて見る道を早足で歩いていく。

 住宅街を抜けて、坂道を上っていき、到着したのは弟の三宮怜夏の大学だ。普段は部外者を拒む門もいまは風船や色紙で陽気に飾られている。一際に目立つ「緑葉祭」という文字が、今日は大学祭が開かれていることを教えてくれた。

 散春は緊張しながら大学に入っていく。いつ「あなたは来てはいけませんよ」と言われないか、考えると胸が締め付けられる。普段ならともかく、学外にも開かれている大学祭で注意されることはないだろう。これはただの被害妄想だ。

 それでも、私はいつだってどこにいればいいのか分からないから。どこにいてもいいのかもわからない。

 うつむきがちになりそうな顔を上げて構内図を見つける。走り寄っていくつもの建物が精密に並んでいる図に気圧された。

 怜夏がいるのは、確か。六号棟だから。

 目的の場所を探して視線をさまよわせるが、なかなか見つからない。焦りで喉が渇き、片足だけ足踏みをしてしまう。

「あの」

「は、はい!」

 また注意されるのかと怯えながら振り向いた。視線の先には黒い髪を切り揃えた、爽やかな大学生らしい青年がいる。童顔というほどではないが、無邪気なその顔には見覚えがあった。

「えっと、怜夏のご友人の……」

「はい。桐山冬至です」

 前に家まで来たことがある弟の友人は人懐こく笑ってくれた。緊張がわずかにほぐれる。

「今日は大学祭に来てくれたんですか?」

「そうじゃなくて。怜夏に、忘れ物を届けにきてくれと」

「なるほど。で、地図を見ていたんですね。場所は分かりますか。よければ俺が案内しますよ?」

 散春は悩んだ。

 自分一人で怜夏のところまで行くのは間に合わないかもしれない。怜夏の英語によるスピーチが始まるのは午後一時からで、いまは午前十一時半だ。それまでに自分一人で迷わずに怜夏のところへたどりつける自信はなかった。

 迷惑をかけるのを申し訳なく思いながら冬至に頭を下げる。

「よろしくお願いします」

「どういたしまして」

 「では行きましょう」と冬至は好意的な笑顔のまま歩き出す。散春は隣に並ばないように、一歩下がりながら後をついていった。

 怜夏の通う大学は明るかった。今日は晴天というのもあるのだろう。高い秋晴れの空から光が降り注ぎ敷地を照らしてくれる。通りに並ぶ屋台からの呼び込みもさかんで、つい足を止めそうになってしまうこともあった。

 六号棟は左側の建物がいくつもくっついた先にある。中講義室と繋がっている、と冬至は説明してくれた。

 建物に入ると外の喧騒が遠ざかる。ところどころ小さな教室で展示もしているらしいが、パネルなどがメインで口頭説明などは少ないらしい。照明も強くなく、窓から差し込む外の光は人工の光より鮮烈に視界を染めてくる。

「やっぱり、午前中は外に人気を持ってかれちゃうんですよね。華やかな学内発表系は午後からなので」

「私の大学もそうでした」

 間違えていないだろう答えを選んで返す。

「怜夏も午後からスピーチがありますからね。忘れ物を渡したあと、見に行きます?」

 喉が詰まった。

 普通の姉弟ならためらいなく見守りながら応援できるのかもしれない。だけれど、散春はそんなことをして怜夏が喜ぶとは思えなかった。聴衆に自分がいるのに気付くと動揺するか、気分を悪くするだろう。

 同時に、「行かない」と答える歪さにも気づいている。さっぱりとした関係だからで納得させられない。怜夏との溝に気づかれる。

「三宮さん?」

「あ、はい」

「着きましたよ」

 六号棟の二階の空き教室の前にいた。冬至は気安く扉を開けて中に入っていく。

「怜夏。お姉さんが来てくれたよ」

「……ああ」

 スピーチの原稿らしきものに目を通していた怜夏が顔を上げる。億劫な目で散春に視線をやった。椅子から立ち上がって近づいてくる。

「忘れ物は、これであってる?」

 どうしたら人前で姉弟らしく振舞えるのか。散春の頭の中はそのことばかりだった。

 いたわりと気安さ、だけれどある程度の距離を置きつつ接する。

 世の中の、同じお腹から生まれた人たちが、当たり前にしているだろうことを私たちはできない。

 散春が差し出した箱を怜夏は受け取った。

「ありがと」

 素っ気無い形だけの言葉だった。諦めとそこから湧き立ちかける感情を押し殺す。

 沈黙が張り詰めそうになる前に、力強く開けられた扉が場に風を入れてくれた。

「遅れてごめんね! ……あれ、その人は?」

「はじめまして。怜夏の姉です」

「あ、私は東川木実といいます。お姉さん、美人さんですね!」

 いきなり飛び出た言葉にびっくりした。

 美人だなんて。反対のことを言われるのはあっても、外見を褒められた経験は散春にない。小汚くはならないように気を尖らせていたが、相手に好感を与えるなんて。

 ただのお世辞だろうかとも思うのだが、それは木実の好意を無駄にするようで、止めた。

「よせよ東川」

「照れてるの? 三宮ってあんまり家族のこと話さないから」

「よせ」

 一回目と違い、嫌悪が滲んでいた。木実は喋るのをやめる。少しの困惑とそれ以上の不快を怜夏に向けてから部屋を出て行った。

 散春は自分を責める。

 怜夏が私以外にも辛辣になるのは私がいるからだ。

 できそこないであり社会的弱者の姉を認めてほしくないから、また知ってほしくないからできるだけ触れずにいたのだろう。

 やっぱり、来なければよかった。

「私はこれで帰るから」

「そう。ありがと」

 怜夏は目を合わせない。スピーチの原稿にまた目を通している。

 これから弟は何を訴えるのだろう。正義の強さか、それとも強者の邁進か。弱者に対するいたわりや優しさは考えづらかった。

 散春も部屋を出る。

「三宮さん」

 いつの間にか外に出ていた冬至に声をかけられた。振り向き、頭を下げる。

「先ほどはありがとうございました。あの、東川さんにはすみませんでしたと伝えてもらえますか」

「それはいいですけど。もう帰ります?」

「はい」

 これ以上ここにいたら、また怜夏の気分を害して周囲に迷惑をかける。私は哀れまれる環境で静かにしているのがお似合いだ。

 散春は眉を寄せながら微笑んで、帰ろうとする。冬至に背中を向けた。

「あの! よければ、少しでも見てまわってから帰りませんか。俺が案内をするので」

 思いがけないことを言われた。散春が振り向いた先にいる冬至はほがらかな笑みを浮かべている。そこには憐憫もお節介もなくて、純粋に一緒にいたいために勇気を出したのだとわかった。

 秋の日差しを受けて返事を待つ冬至は大げさだが、天使のように見えた。

 だから散春も答える。

 普段ならば相手を疑い、その後に自分を嫌悪して、ひとりきりになるのだがいまは違った。

「お願いします」

 外で風が吹く。植えられた木々がざわめいてからまた、静寂を取り戻していった。

 

 

 

 散春が冬至と付き合うようになったのはそれからだ。

 メールアドレスを交換して、怜夏に隠れて何度も会っているあいだに冬至から想いを打ち明けられた。

 散春は泣きたいくらいに嬉しかったのと同時に、断ることもできなかった。

 こんな徒花にこだわらず、もっと可憐な花を摘むように、すすめるべきなのは分かっている。頭をかき乱す言葉よりも先に飛び出したのが「はい」だ。

 そうして季節は移り変わって冬になり、吐く息も白くなっている。マフラーで口元を隠しながら散春は都心に向かうために使われる駅の入り口で冬至を待っていた。

 誰かと一緒に出かける。それがこんなにも幸せなことだと教えてくれたのは冬至だ。緩む口元をそのままにして、目の前をせわしなく通り過ぎていく人たちを眺める。

 すべての人に愛おしい人や大切な人がいる。言葉にするとわかりやすいが散春にはそれがどういうことなのかよくわからなかった。

 散春にとって両親も弟も大切ではあるのだろうが同時に澱も巣くっている。

 どうして私を蔑むの。拒むの。嫌うの。

 ネグレクトはされていないから家族の義務は果たしてもらっているのだろうけれど、それでも胸の中の痛みは消えない。

 私だってこんな弱く生きたいわけじゃないのに。

 思考が落ち込んでいく。息を、一つだけ吐いた。マフラーの中で湿った空気を生暖かく感じる。

「散春さん!」

 聞きたい声が届いて顔を上げて、笑みをこぼした。ダウンコートに身を包んでいる冬至が近づいてくる。無邪気に笑いながら進む姿は、雪をかき分けて進む中型犬の元気さを連想させた。

 それだけで救われて、散春は微笑んだ。

「寒かったよね。待たせてごめん」

「ううん。待つのは好きだから」

「なら、次から散春さんへの待ち合わせ時間は遅く伝えないとね」

 俺が先に来られるように。

 屈託のない笑顔と一緒にそう言ってくれるのが嬉しい。

 冬至の優しさは最初からずっと一貫していて、安心できる。それは幼少期からずっと散春に欠けている経験というもののような気がした。

 私がいてくれるだけでいい。与えるのは冬至の意思だ。

 だからといって甘えてばかりもいられないから、散春も冬至に与えるように気をつけている。

「散春さん」

 手を伸ばされる。散春は手袋ごしに冬至のしっかりとした手をつかんだ。

「今日はどこに行こうか」

「そうね」

 まずは、駅に隣接しているビルの店をウィンドウショッピングすることになった。

 散春のわずかな給料では憧れるか、何ヶ月もの努力を貯めて勇気を振り絞らなくてはならない衣服たちを見る。その目がさもしくなっていないか不安だった。

 冬至にみにくいところは見せたくないし、気を遣って買ってもらいたくもない。どこにでもいる女の子のように自分を見てもらいたかった。

 昔だったら頑張って見栄を張ったかもしれない、フリルのついた薄青のスカートから目をそらす。最後の店を見終わった。

「冬至さんは何か見たいものはないの?」

「手袋がないかは探したいかな」

「じゃあ上に行きましょう」

 フロアの中心にあるエスカレータを探していく。冬至が先に上って、散春は見上げた。いまの立ち位置に落ち着きを覚える。

 隣に立てるのは泣きたいくらいに嬉しいことだけれど。私なんかが、これほどいい人に付き合ってもらっている現実は夢なのではないかと不安になる。

 何もしなくていい。私を求めてくれる。

 その経験があまりにも不足していて、秘密にしていることもたくさんある私は。

 冬至さんが大好きだけれど信じてはいない。なんてひどいことだ。

 せめて今日、彼が気に入る手袋を見つからないか祈ることしかできない。

 

 

 買ったばかりの手袋を鞄にしまった冬至といっしょに、散春はビルの七階にあるカフェレストランに入っていった。

 冬至はサーモン丼、散春はいくらと鮭の茶漬けを頼む。

「ありがとうございます」

 ウェイトレスに礼の言葉と一緒に頭を下げた。あげると、冬至が微笑んでいる。

 嘲りはなく視線で愛でられて気恥ずかしくなった。

「どうかしたの?」

「散春さんのそういうところ好きだなって」

 大きな声ではないが言われたことに恥ずかしくなる。とくん、と脈拍が乱れて落ち着かず紙ナプキンをぴり、と裂いた。

 冬至は話を続けていく。

「礼儀正しいとかとは違うんだよね。むしろ申し訳なさそうにしているのにがんばって言うところ。そういうところだよ」

「なに、が?」

「散春さんいわく他にいるたくさんの素敵な女の子たち。それよりも俺が散春さんと一緒にいたくなる理由」

 テーブルの上に置かれた手に自分よりもたくましい手が重ねられる。熱い。男の人の手というものはこんなにもしっかりとしているのか。皮膚も厚みがある気がする。

 冬至さんは私以外の人とも付き合ったことがあって、当たり前にその優しさをいろいろな人に注いできたのだろうか。分不相応な嫉妬が背筋を舐める。

 周囲に目を走らせるが席は六割ほどしか埋まっていなかった。どの席もスマートフォンに向かっている人か、自分たちのように話をしている組み合わせしかない。

「散春さん」

「は、い!」

「怯えなくていいから。これから結婚とかまで付き合うかは正直……わからないけど。いまは怯えなくていい」

 どうしてこの人と、いまというタイミングで巡りあったのだろう。

 両親が私を疎み、怜夏が私を嫌った、最悪の時期に出会っていたならば冬至さんもきっと、私と恋人になるだなんて思いもしなかっただろうに。

 ずっと欲しかった言葉と居場所を初めて与えてくれた人がここにいる。 

 散春はうつむいた。

「私、ずっとあなたに隠していたことがあるの」

「うん」

「重くなったら、やめてって言ってね」

「うん」

 そうして私は降り始めた雨のように言葉を落としていく。

 全ての間違いの始まりすら分からない、ただ悲劇のヒロインを気取った話を紡いでいく。

 

 

 単純に言えば私の中のとある部分は機能不全だった。

 だから入院した。何科、かはなんとなく分かると思うから言えない。ただそうしなくてはならないほどに家はすさんで、怜夏にも楽しい思い出というものを作ってあげられなかった。まだ幼かったのに世間の冷たさや世界の悪辣さを、思い知るだけの子供時代だったろう。

 怜夏が生まれたときから少しずつ剥がれ落ちていった、私の不良品の器官はあらゆることをしても直らなくて、悪化の一途をたどっていった。

 優しさを装った冷徹な檻を出たのは十五歳の頃だ。その頃から成人するまでの記憶は曖昧だ。辛かったこと、苦しかったことばかりが鮮烈に焼き付いている。

 大学には無事に入れた。そこで多少の社交性を覚えていき、いまはなんとか働けている。

 それでも私を見つめる目には必ず何かしらのバイアスがかかる。社会であれ、個人であれ、組織であれ、私事であれ。

 年下のあなたにこんなことを告げるのはとても恥ずかしくて、怖いから。

 いつだって怯えずにはいられなかった。

 もう一つ、怜夏が私を憎んでいるのを不思議がっていたけれど、それも当たり前なの。

 私は怜夏にとって少しもメリットがないから。

 これまでずっと、正しく間違ってきたから。

 

 

 泣き崩れなかったのは必死の努力だった。視界は潤んでいる。目の前のいくらと鮭の茶漬けは湯気をくゆらせているのに気道が詰まって食欲なんてない。

 これで終わりだ。そういう気持ちもあった。

 同時に、妄想じみた希望にすがってしまう。私の過去を聞いて。知って。それでも私がいいと肯定して。

 私を愛して。

「……そこ、こだわるよね」

 返ってきたのは思いがけない言葉だった。料理が運ばれてきたときに一度放したが、冬至はまた散春の手に触れながら言う。

「メリットとか、一緒にいて楽できるとか。そういう、自分に利益があることがないと人は付き合えないけれど、散春さんの受けとり方はちょっとずれている気がする」

「出来損ないだもの」

 本心から苦いものをこぼす。

 生まれたときから壊れていた。不良品を店頭に並べる商人は図太くて、万が一買われるとしても値下げされるのは当然だ。

「間違えた愛情を覚えちゃっただけだよ。がんばれば、いまからやり直せる」

「分かってるの。でもがんばるのは疲れてるから」

「だったら、まず食べようか」

 冬至はスプーンを散春の手に握らせた。それからゆっくりと手を放していき、割り箸を持つ。袋から抜き去って、ぱちんと割った。

「いただきます」

「……いただきます」

 お椀に茶を注いで、散春は半分ほどスプーンによそって口に運んだ。

 生きてきて、一番安心する味がした。

「おいしいね」

「うん。おいしい」

 それから黙々と食べ続けていたが、冬至が不意に言った。

「怜夏とはどうなりたいのかな」

「普通の家族になりたかった。でもね」

 それを望むのは許されないと分かっている。

「私と関わりたくのない怜夏に、譲歩を求めることはしたくない。怜夏にとって私がいないことがよいことなら、もうそれでいいの」

 一時は怜夏を憎んでうらやんだ時期もあった。

 同じ腹から生まれたのにどうしてあなたは普通なの。私に圧政を強いた両親になれなれしく、反論ができるの。

 最後の、姉弟らしい会話で出てきた言葉は私の胸に深く突き刺さって、透明な矜持や尊厳を砕いてきた。

 

『自分だけが辛い顔をするな』

 

 私はこんなに辛いのに。

 どうして誰も理解しようとしないの。

 それが、もう私に世界への希望を放り投げさせる些細な出来事だった。

 散春はスプーンを置く。食欲は話すたびに縮んでいき、もう口の中で潰れるいくらも鮭の塩味もいらなかった。

 感情のままに話してしまったけれどこれで、冬至さんともお別れだろうな。拗れて重たくてやっかいな女を引き受ける人なんているわけがない。

 口元を引きつらせた散春の頬に冬至の手が添えられた。

見開いた目には、強い微笑を浮かべている男性がいる。自分よりも年下なのに、だからこそか無謀な勇気を携えて、温もりを分けてくれる。

「さっきも言ったよね。ずっと一緒にいられるかはわからない。俺も、あなたの秘められた傲慢さに耐えきれなくなるかもしれない。それでもまだ、散春さんと付き合いたいよ。俺を好きになってよ」

「嫌いになれないくらい。好きになっているわよ、もう」

 そうだ。

 好きだから。怖いけれど、さらけ出してしまいたかった。私の苦しみはもう、自分だけの物じゃないから。

 冬至の指先に滴がしみていく。

 瞳の防壁はすでに決壊していた。

「怜夏のことも」

「もう、間違えないようにしたい。傷つけたくないの」

 冬至は手を重ねたまま頷いた。

 

 

 冷めた食事を食べられるだけ口にして、店を出る。

 それから駅に着いて別れるまで冬至は散春の手を放さなかった。少しでも散春の手から力が抜けると強く握ってつなぎとめる。また涙がこぼれかけた。

「駅まで送るから」

「うん。ありがとう」

「その前にこっちへ来てもらえるかな」

 冬至は散春の手をつかんだまま、駅の近くにあるドラッグストアの陰に回った。一気に人が見えなくなる。

 何を考えているのかを察そうとしてから恥ずかしくなった。顔をうつむかせると冬至の空いている右手がまた頬に添えられる。惹きつけられるように顔は持ち上げられて、世界が冬至だけになった。

 瞳の中には迷いがあるだろう。体のいたるところに傷もあるだろう。それでも私が笑えるようにいつも努めてくれた。

 欲しかったものを与えてくれている人だ。

「冬至さん」

 応えはない。まだ私を見ている。黒い瞳孔に真昼の白い月の輝きが残って輝いる気がする。

 うつくしさにため息をつきながら、散春は冬至の唇に自分の唇を重ねた。

 初めて触れた恋人の唇はわずかながら乾燥していて、熱かった。暖炉にくべられている薪の絵が浮かぶ。

 優しい、私を温めてくれるオレンジを溶かし込んだような熱にいまが冬だということすら忘れかける。

 三秒ほどして唇を別れさせた。

 散春の唇はまだ熱い。全身がほてって寒いのに汗ばんでしまう。

 また涙が目に膜を作って、冬の夜の世界を揺れるように浮かび上がらせた。その中心にはっきりと存在している冬至に向かって、言わなくてはならない六文字を伝える。

「だいすきです」

「俺も、散春さんが大好きです」

 耳を通して甘い言葉が頭で弾けて全身に染み渡っていく。

 度数の高いお酒を口にしたらこれほどのときめきと、酔いを覚えるのかしら。世界が塗り替えられる。色も溢れていたけれど、褪せていた彩は本来の鮮やかさを取り戻す。午後五時を過ぎて太陽が沈んでも怖くない。

 私のろうそくに灯を分けてくれた冬至さんがいるから。

「駅まで送るから」

「そうね。また、会える?」

「会えるよ。散春さんが待ちぼうける前に」

「待たせてもいいのよ。それだけ、冬至さんのことを考えていられるから」

 大好きな人を想える幸せがいまはある。

 散春は負い目も不安もないまま目を細めて、口角を持ち上げる。

 参ったな、と冬至は頬をかいた。