弟の傲慢

 

 

 耳の中に直接蜂蜜を流し込まれた。

 そう思うくらいに甘い声が、自宅に帰って廊下を歩く怜夏の耳に届いてきた。

 ここは別にいかがわしいことをするための建物ではない。怜夏と姉の散春が暮らすアパートの一室だ。名字である「三宮」のネームプレートが玄関横にあるのも、先ほど目に留めた。

怜夏は足音を立てずに廊下を歩いていく。このアパートは食事をとるためのダイニングキッチンと、水回りの設備に怜夏と散春の部屋がそれぞれある以外は、クローゼットくらいしかない。

 声は散春の部屋から聞こえてくる。切れ切れの花色をした声が聞こえるたびに心臓がどくどくと忙しなく動いた。廊下は清潔で歩きやすくて、いま鳴いている散春がこまめに掃除をしていたことに気づくのが馬鹿らしい。

 怜夏はこれから自分が見るものが何であるかとっくに分かっていて、諦めながら、散春の部屋を隙間から覗く。

 目が合った。

 散春を、姉を抱いている男が誰か分かる。姿に見覚えがあるどころではない。

 男は友人の桐山冬至だった。

 怜夏が肩に下げていた鞄が落ちて、大学の教科書が廊下にたたきつけられる音がする。

 いままで冬至がかぶさることにより、視界を遮っていたが、音に気づいた散春は体を震わせた。

 強く閉じていた目を開いた先に弟がいたことを散春はどう受け止めたのだろう。

 羞恥か、絶望か。

 知らないあいだに怜夏は熱の無い笑みを浮かべていた。

 

 

 

 怜夏は散春と冬至が身だしなみを整えるまで外に出ていた。声をかけられてから家に戻る。

 さてどうしよう。

 これから嗜虐的に姉と友人を断罪することも可能なわけだが、べつに俺と散春はちょっと普通ではない姉弟仲なだけで恋人同士であるわけではない。していること自体は、冬至が強姦をしているのでなければ追求することではないだろう。

 怒ることができるのは、そういうことをするなら一人暮らしの冬至の家でしろ、ということや。

 問い詰めるなら二人が恋人とかになったのはいつからだということだ。

 いまは蝉の鳴き声もうるさい八月だが、冬至と俺は去年の秋に開講した授業で知り合った。それから冬至と散春のあいだに接点らしいものが生まれたとしたら、だいぶ前の飲み会の帰りに、冬至が俺の家に寄って挨拶をしたときだろう。

 それだけだったはずなのにいまは体を重ねている関係にまでなっていたとは。不埒な姉だ、と呆れてしまう。

「待たせた」

 ダイニングキッチンまでやってきた怜夏に冬至が落ち着いた様子で声をかけてきた。

「もう少し俺を放りだしていたのが良かったんじゃないか? 冬至、友人だからこそ今回は気まずいだろう」

「べつに。腹は決まっていた、今回は良いきっかけになるくらいだ」

 端正な顔に微笑を浮かべて言うのだから、友人の神経を疑った。冬至は高校生の頃にスポーツをしていたためか体格もしっかりとしている。だが、中の神経までそんなに太いとは思わなかった。

 染めていない黒い髪を清潔感のある長さに切りそろえている点や、先を歩く長い脚など、もとから女性受けが良いのを怜夏は知っている。それでも、散春を惹かせるほどだとは魅力的だとは考えたことがなかった。

 散春がキッチンから出てきて、冷たい紅茶の入ったグラスを置いて回る。途中で怜夏に苦みか恥ずかしさの混ざった笑顔を向けてきた。

 一気に腹がうぐうぐと煮立つような気分に陥った。

 もとから仲が良い姉弟だとは決して言わない。俺にとっては憎い存在である散春がさらに申し訳なさを抱いているいまは、気に入らず、不愉快だ。

 乱れていた濃茶の長い髪は緩く下のところで結ばれていて、服は着替えたのか露出の少ないワンピースだ。鎖骨のあたりも隠す服なのは、情事の痕を見せないためなのだろう。浅ましい工夫に拍手を送りたくなる。

 怜夏がテーブルの左上に、その向かいに冬至が、冬至の横に散春が座る。

 渇いた喉を潤すためにあまり飲みたくのない紅茶をあおってから、怜夏は口を開いた。

「二人とも付き合ってるの」

「ああ」

 はっきりとした答えだった。散春に目をやると頷かれる。

「いつから?」

「三カ月前、くらいだな」

 俺が二人を挨拶させてからいつの間にか連絡を取り合うようになって、くっついたらしい。それほど相性が良かったのか、まで考えると生々しくなりそうなので止めた。

「まあ付き合っているのは別にいいけど。ただ、よく友人や弟のいる家でする気になったな。そんなに盛り上がったの」

 明らかな侮蔑をこめる。

 いつだってそれは、怜夏が散春に対して送っていたものだ。そして今回は散春に非があるので、いつも送る時にわずかにあった引け目を感じなくてよい。

 怜夏は普段よりも傲慢に散春を蔑んだ。いまも家の外で鳴いている、最後には炎天下に転がる虫を見る視線よりも冷めきった目をしているだろう。

「そうだな。俺から誘って応えてもらえるくらいには、雰囲気は良かった」

 嫌みなのか本気なのかわからない冬至の言い方は無視する。

「あんたは俺が帰ってくること考えなかったの?」

「ごめんなさい」

「謝られても困る。俺が欲しいのは答えだから」

「……もう少し、遅くなるかな。くらいは」

「弟がいる家で、弟の友人を連れこんで。やることするくらいは平気なの。すごいね」

 導火線に火がともるなんて例えよりも短く、苛立ちは燃えていた。吐きだす言葉はざりざりと荒くなって散春を削っていく。いつものやりとりだ。

 この人は。

 いつだって、俺の大切なものを盗っていてすまなそうにしている。

 目を伏せながら謝りの言葉だけを、苦味をにじませながら伝えてくるのに奪ったものは返してこない。

 怜夏はテーブルの下で拳を握って爪を立てる。冬至がいなければ机など物に八つ当たりしていただろう。

「怜夏。三宮さんを……散春さんをそうやって責めるのはやめた方がいい」

「家族のことだから入ってこないで」

「いまだから言いたい。俺は、何度も散春さんから話を聞いていた。おまえが散春さんを快く思わないのはなんとなくわかるけれど、だったら距離を置くとかしたほうがいいんじゃないか?」

「入ってくるなよ」

 夜が迫ってきているためか外から聞こえる虫の声が変わってきた。部屋は圧迫してくる悪意や敵意、困惑が混ざり合っている。息苦しい。

 怜夏はぬるくなったアイスティーにもう一度口をつけて落ち着こうとする。それでも散春に対する憎悪が、今日はいつもより抑えきれない。

 冬至を盗られた、などとは考えていなかった。

 散春の無節操さが気持ち悪いんだ。

 俺に傷つけられた散春を見ると誰かしら庇ってくれる相手などがいて。こちらの事情も知らないのに俺がたしなめられて、怒られるなどして終わる。憎しみは鬱屈を増すばかりで押し殺していると吐き気がする。

 俺ばかりが不幸だ。

「散春さんも、怜夏に言わせてばかりじゃなくて言いたいことを言わないと」

「私が言えることはないから」

「そうやって逃げるんだろ?」

「うん」

 頷かれた。いつもなら、口をつぐんでいるというのに、反応が返ってきた。

 散春は顔を上げる。怜夏を三秒ほど見つめた。見つめられているあいだ、怜夏も散春をにらみ返した。

 敵意しかない視線を平然と受け止めた散春は、いつもよりしっかりとして見えた。

「怜夏が私のことを嫌っているのは十分に分かっているから。嫌いな相手に愛されたいなんて思うはずはないから、私は怜夏と向き合えない。好きになったら、いけないの」

「……は?」

「ごめんなさい。まだ、当分は一緒に暮らすことになるだろうけれど。もう少ししたら実家に帰って、冬至さんと正式にお付き合いをすることになるから。怜夏とは、もう関わらないようにするね」

 数時間前に蜂蜜を流し込まれた耳が今度は凍っていく。頭の中で散春の言葉が何度も反響していった。

 どうして俺から逃げるんだと言いたいのに、目の前にいる散春は穏やかに笑って。

「いままで一緒にいてくれてありがとう。最後に、優しい姉らしいことはさせてください」

 頭を下げて、幸せそうにしていた。

「冬至さん。私、少し席を外すから」

「わかった」

 椅子から下りて散春は自室に帰っていく。怜夏は音を立てて椅子から離れた。いまも遠ざかって扉に消えていく散春の肩をつかむ前に、冬至に止められた。

「なんだよ!」

「さっき散春さんが言ったとおり、俺と付き合う相談のため、家に上がらせてもらったんだ。本当はもっと落ち着いてお前に説明できるように」

「お前はあの女がいいのかよ!?」

「そうだ。あの人がいい」

 足元から気力が抜けていく。

 どうして、周囲は散春を求めるのか。

 実家にいる父と母の心配や気配りも、いつだって散春のものだった。俺が好かれるためにした百の努力は気味悪がられるか当然のものでしかなく。散春が泣いたり、普通のことをやり遂げるたびに、両親は困りながらも安心していた。俺には向けてくる低い声を散春がもらうことは決してなかった。

 友人関係はそこまで差別的ではなかったが、いま冬至は俺の友人から散春の恋人へと重きを変えていっている。

 俺よりも好かれている、そんな散春が嫌いだ。

 だというのに俺のことを慈しんではいたとしても、決して好きにはならないと決めた散春が、憎くて、憎くて。

 真っ黒な感情が怜夏の心を塗りつぶしていく。そのあいだに冬至の声が届いた。

「俺について責める言葉は何もないのか?」

「……わざわざあれを選ぶなんて、おかしい趣味しているな」

「言い方は悪いが、散春さんが社会的弱者とされているのは知っている」

「知ってたんだ。なおさらおかしいな」

「そうかもしれない。だけど、俺は散春さんを選ぶと決めたから」

 冬至も席を立つ。足音は遠ざかり、散春の自室で会話が聞こえてくる。

 もう二人の後を追いかける気力なんてなかった。背もたれにだらしなくよりかかり、美味しくのない紅茶がゆらめくグラスを見つめる。

 テーブルに拳を叩きつけた。痺れる痛みを感じながら、吐きだす。

「分かってるんだったら。一生を背負って、あいつを幸せにしろよな……!」

 こぼれ出た言葉が祝福なのか呪いなのかはもうわからない。手のひらで目を覆う。

 世界はこんなにも暗かった。