夜明け前、世界を滅ぼした 最終話

 

 

 

 そうして世界は滅びる直前だ。

 血に濡れた面を上げつつ、貴海は腕の中のファレンを強く抱きしめる。射抜かれた腹からはもう出血はないが、呼吸は浅い。早くに手当てをしないと危険だ。

 目の前の男はそれを許さない。

「約定を、破るのか……!」

 貴海の血のにじむ声に、地面を愛撫するように舐める炎を背にして、男は嗤う。

「民は引き取った。預言者はいただいた。全て俺の管轄となったが、その女だけは貴様の所有物だろう。それともいま譲るか?」

「渡さない」

 腕に力がこもる。膝をつかないように、地面に突き刺して支えにしている右手の剣はまだ折れていない。

 戦える。

 だが、そのためにはファレンを放さなくてはならない。それはできない。

 ぱちぱちと炎が立てる音は拍手のようだ。主役は目の前に立つ黒狼の世界の貴族か、ならば俺はただの路傍の骨か。

 すでに焼け落ちた教会から始まった火災は蛇のごとく大地を這いまわり、世界を灰に帰そうとしている。

 貴海が守ってきた世界は黒狼の世界に呑まれる。それは避けられないことだ。

「手を放したほうが楽だろう」

 先ほどの嘲りとは違い、労りすらもった声で貴族は言った。

「そうだな」

 だけれど渡せない理由もある。

 貴海は右手に力をこめて、立ち上がった。目を閉じたまま開けられないファレンの横顔を視線でなぜる。顔色は紙の白さとなり、首は落ちたまま持ち上がらない。それらが貴海の覚悟を誘う。

 振り上げた剣の向かう先は、貴海とファレンの、心臓だった。

 こんな終わりは望んでいなかったのに。

 一抹の後悔を噛みしめて貴海は命を閉ざそうとした。

『おやめなさい。すでに結果は決まっています』

 頭に声が響き、手の動きが止まる。

 赤い地面から光の螺旋が生まれ、そこから、神が現れた。金の髪を緩やかに流した青い瞳の女神だ。着ているものは穢れのないことを表す、縁が波打つ飾りの白銀の装飾衣だった。

『ファタールの貴海。あなたの世界は、たった一人の領民を残して全て黒狼の世界へ移住されました』

『黒狼の貴族。あなたは交わした約束を違えてはなりません。貴海と領民をそそのかすこともです』

「ならばどうこの場を収める。平穏の女神よ」

 瞬きほどの沈黙を置いて、女神は言葉を、器官を通さずに伝えていく。

『ファタールは黒狼に呑まれました。あと少しで滅びます。そして貴海は貴族の権能を私たちに返すのみです。条件が整うまでは人として、一生を送ることになります』

「俺に貴海は殺させないというのか」

 貴族の口から洩れた言葉に女神は頷いた。

『貴族の貴族殺しは禁忌です。人になるとしても貴海が貴族であったことは変わりません。いつか、過ちが未来に追いつくでしょう』

「女神よ、ファレンは。ファレンは助かるのか!」

『はい。私たちは不必要な流血など望みません』

 優しさのない声だったが、言われたことに貴海は安堵する。

 ファレンの命は消えない。いまはそれだけでいいから。

『いきなさい、貴海。あなたたちを受け入れた世界があります』

 女神は言うと、手を持ち上げて貴海たちに向けた。光の螺旋にファレンごと包まれていく。時間がたつごとに拡散していく意識だったが、黒狼の名を背負う貴族の、淡白な殺意は消えなかった。

 

 

 

 そして貴海とファレンは存在を書き直された。