※欠損表現について

 前回の日記から早々に間が空きましたが、書く意思はまだあり、自分に安心しています。

 今日の話題は「欠損表現について」です。

 痛い話になります。

 

 

 私は欠損表現がとても苦手です。

 それを思い知る出来事がありました。

 この前、『来世は他人がいい』を購入して読んだのですが。

(こちらの作品の展開を知りたくない方は、ここで今日は読み止めてください)

 

 

 ヒロインである吉乃さんが臓器を自分から売買しました。

 理由を簡単に書きますと、自分に関心のなかった婚約者を自分に惚れさせるためです。惚れさせてから、手酷く振る目的があるからです。

 吉乃さんとその婚約者の背景には極道があるので、惚れさせるためといっても、臓器の売買は愛情表現という理由ではありません。むしろ啖呵を切るためです。

 こちらの作品は面白くて続きが気になっていますが、吉乃さんが強さを見せるたびに、「それでも腎臓を一生一個失くした」と思い出してしまい、自分の胃が痛みます。

 

 

 こちらに続き、『PSYCHO-PASS』では私の最愛の人である、宜野座さんも左腕を失くしました。

 父親である征陸さんの影を踏む意味と、皮肉、もしくは脚本の方の浪漫が理由なのかもしれません。

 失くす必要性が物語にあったのは分かるのですが、私はいまだに宜野座さんが左腕を失くす時系列の作品に触れることができません。

 

 

 以上により、私は欠損表現がとても駄目なのですが、その理由をいま挙げた二作品から考えてみました。

 まず一つは体感できる存在していたものが失われることが怖い。

 二つ目に不自由さへの反感がある

 最後に不可逆性の理不尽への嫌悪感があるのではないか、と現在のところ結論を出しています。

 

 心の欠損や崩壊もあってはならないことです。

 それらと同じものとして、体の欠損表現は恐ろしいのだと、いまキーボードを打ちながら自分の手を見て実感しています。

 当たり前にあったものにより、できていたことが、二度と戻ってこなくなる。

 欠損表現は怖いや嫌いなど以前に、私にとっては受け入れがたいものです。

 生きていると身体の部品を失う危険性は常にあります。失ってしまったら補って生きていくしかない。

 それを頭で分かっていても、物語中に起きるとやるせなさや怒りを覚えてしまいます。

 

 

 文の練習と思って書きましたら長くなりました。本当はまだ書き足りないところがありますが、こちらで終わります。

 最後になりますが、今回の記事の内容は「欠損表現のある物語を否定したい」のではありません。

 私が欠損に耐えられないと知ることができたように、物語としてあるのは大切なことです。

 その上で「どうして欠損が受け入れられないのか」の考えをまとめるために、この記事を書きました。

 

 以上です。